民間と国の提供する学習機会を比較して構造を考える

民間と国の提供する学習機会を比較して構造を考える

個人が主催している塾・サロンと企業が提供している学校や講座・コースというものが世の中には無数にあります。

個人の私塾と言えば学習塾からダンスから趣味的な分野や資格取得といったものであればワークショップやセミナーという形でその機会が提供されています。

他方、企業の場合はその仕組みはシステマチックになっておりビジネススクールから、スキルアップのための学習や資格取得のための通信教育といったものから学生向けには試験対策、大学入試対策といった焦点を絞った学習塾と枚挙にいとまがないほど微に入り細に入り網羅しています。

これは、学習という市場をとらえたときに人は生涯にわたり学習を続けていくことで成長をしていくという事を示しています。

教育現場の内容を俯瞰してみる

よく、義務教育以外は必要なくてそれ以外は学ぶ価値がないような論や大学が不要とか試験勉強はけしからんとか言っている識者やジャーナリズムがありますが、そうした分野で活躍している人は学んでいないのでしょうか?

そうではありません。

実質、既得権益を持っている人が自分の立場を脅かされる事を暗に防ぐために足を引っ張っているだけとも言えてしまいます。

歴史を振り返ってみれば、学ぶ機会というもの自体はなかなか平等にはなかったですが、そのなかでも寺子屋といった形で誰でも学べる機会が用意されていました。

そうした私意の学ぶ機会は多くが継承されてビジネスという資本主義に転換してからは事業として起こされ提供されるようになっています。

国としては、義務教育としての期間を定めて最低レベルとしてその期間は学んで知識を蓄えて一般的と言われるレベルの生活を送れるくらいの知識を身につけましょうという指針を示しているに過ぎず、高度教育やこれからの社会に必要な知識を学ぶべき方法などを教育白書として示しています。

この指針に則り、必要最低限なレベルの知識を身につけるための学習機会が誰にでも提供されその知識や身につけた経験に応じて職業が提供されているし、それは大学に行こうが高校に行こうが、中学で機会を辞めてしまい、以降は仕事をして生活を送ろうが、最低レベルとしては中学までの学習は提供されている事になります。

世界を見れば、日本の中学レベルの学習を納めている人は実は少なく、それ以上に小学校での学習も満足に出来ず、歩けるようになりしゃべれれば家の家業を手伝うといった事をはじめとして学ぶ事なく成人し、そうした家業の労働をし続ける事になります。

ですから、国としては、そうした最低レベルの知識を学ぶ機会を提供する事で文字を書くことが出来て、算数の乗算・加算を修得して英語だってこういったモノだよという基本知識は提供しています。

また、歴史などでは成り立ちを教授しているわけですし、生きていく上で恥ずかしくないための知識というモノは日本では豊かに教えていると言う風に言えます。

基礎学習はそういった意味では、保証されている日本でも情操教育や感情のコントロールなどを経験を持って教えるのではなく反復や詰め込みを是としている学習機会においてはなかなかうまくいっているとは言えません。

なぜ、なのでしょうか?

それは人は読んだり見たりした学習ではその内容の20%しか修得出来ないのです。

つまり基礎学習の範囲で教えているのは、見たり読んだりするだけの教育機会しか教えておらず、実際の体験や経験などが不足していると言えるのです。

文字や知識だけでは人は忘れてしまうから

人は文字や知識だけでは人は忘れてしまいます。

残りの80%は実際に、身体を使い心を動かして体験するしかないのですが、そうした経験は、文化祭や体育祭といった文化行事で経験をしていたりするはずなのですが、そうした学習をなぜさせているのかを教えていない、不足しているので生徒側が理解していないのではないでしょうか?

機会は提供するだけではなく、なぜ、そうした学習をしなくてはいけないのか?それによって何を得る事が出来るのかを伝えなければ人は理解して行動をしようとしません。

この行事を通じて何を得て、どうなる事を目指して欲しいのかを本来は教えるべきなのですが、行事というプログラムに組み込まれてしまっているので、強制と感じてしまう場合があります。

そうしたイベントを楽しむし学ぶ機会とうまくとらえる事の出来る人だけではなく、マニュアル通りの通過儀礼ではなく何故という問いを感じて貰いその問いに答えていく事が本来の教育であり学習機会といえるのではないかと思います。

マニュアルではない学習を通じてその意義を教えて、何を得る事ができるのかをきちんと提供出来るのは、国などの指針に沿って提供されている学習では無理で、完全に自主独立した環境や学習指導要領といったものに沿わない内容で学習機会を提供している場でしかかなえる事は出来ません。

公立よりはもとより私学であっても、国の指針の中でしか学習機会を提供する事は難しい場合もありますので、そういった意味では私塾のようなパーソナルスクールとった形態で公的権威に乗っ取らない学習の機会というモノは益々必要になっています。

ですから、日本でもこれから必須となるプログラミング学習などは民間が提供するようになっているわけです。

なぜなら、こうした知識は学校という国のシステム以外で使われている技能であってそれを実地を持って教える事の出来る人は、民間にしかいないと言えるからです。

民間に蓄積している実地の知見を生かす

学習方法は、実際に何故、こうなるのかを実地を持って経験して貰うという機会が一番学び修得する事が出来るからですし、そうした知識は小さな時から経験している方がより知見を深める事が出来ますし、その知見というものは常に進化を続けているから実地を積んでいく方がそうした進化に適応し続ける事が出来るからです。

また、大人になってしまうとそうした知識を得ても活用する機会が少なく、できあがっているモノを活用する応用力というものが大事になってしまうので新たな技術を生み出すという事には向いていないと言う事になってしまいます。

ですから、演技やナレーションといった分野でも実地に即して本当に必要な知識を提供して経験を積む機会を提供する事ができるのは民間の事業の中からしか生まれてこないとも言えます。

確かに、一部ダンスなどは体育などのカリキュラムに組み込まれていますが、演技などの感情や人との距離の取り方といったコミュニケーションに役立つスキルは学習指導要領には組み込まれていません。

本当は、そうした学習はゆとり教育という風に揶揄されている方針が示されたときに組み込む機会があったのですが、すでにそうした機会は失われてしまい、当分は訪れないでしょう。

ですから、演技やナレーションといった学習をWebのサービスで提供する本サービスとしては、その構築やどういったカリキュラムを組むべきなのか?実際に提供している企業などの事例を持って紹介する事で知って貰うことがいいのではないかなと考えています。

実際に私塾や企業として学習を提供しているサービスについてのコースの構成や学ぶ機会をどのように提供しているのか、その価格設計などをどのように算定しているのかを解体して解説する事でコースを提供する側も、学ぶ側もなにを得る事ができるかを知ることで活用機会を想像していただけると思います。

次回から、そうした事例を1つづつ提供します。

2017年1月10日

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